渋谷の街が発展するまで
それでは、まず、渋谷の街の歴史についてたどってみたいと思います。
渋谷という地名の由来は、諸説あります。
①昔、この辺りは入江であり、「塩谷の里」と言われていて、それが「渋谷」に変わったという説。
②川を流れる鉄分を含んだ水が、赤褐色だったことから、シブ水を流れる川が「渋谷川」と呼ばれるようになったからという説。
③この川沿いの低地がしぼんだ谷合いにあったからという説。
④平安時代のこの辺りの領主の姓からとったという説。
この4つが代表的な例です。
いずれにしても、この辺りは、宇田川、渋谷川の合流地点である谷底の街であり、なかなか開発が難しかったようです。
鉄道が開通したのは、明治時代で、日本鉄道(JR東日本)による山手線、東京市電(東京都電)、玉川電鉄(東急田園都市線)が乗り入れました。
ターミナル駅としての役割がここで生まれました。
1934年(昭和9年)には、東横百貨店(2013年までは東急東横店東館)が、1938年(昭和13年)には、玉電ビル(現:東急東横店西館)がオープンしました。
これに伴い、それまで上野や浅草で買い物をしていた人々が渋谷に集まるようになり、発展の第一歩となりました。
銅像が「ハチ公前」として待ち合わせ場所で有名な忠犬ハチ公は、この頃まで亡き飼い主を10年間待ち続けたそうです。
第二次世界大戦により、渋谷駅前は焼け野原になってしまいましたが、復興は早急に進みました。
東急電鉄が、東急会館・東急文化会館・渋谷東急ビル・東急百貨店本店と完成させ、駅前を東急一色に変えていきました。
こうして渋谷は、「東急の街」として認知されるようになっていきました。
ところで、東急百貨店には、1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)の一年半のみ、子供だけが乗れた、ケーブルカーがあったのをご存知ですか。
「空中電車ひばり号」と呼ばれていたそうで、乗降はできず、東急百貨店と玉電ビルの折り返し運転のみをしていたそうです。
さらに、東急文化会館(現:渋谷ヒカリエ)にはプラネタリウムがあり、屋上部分がドーム型になっていました。
渋谷にこのような施設があったというのには驚かされます。
渋谷が発展するきっかけとなったのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催です。
まず、街をながれていた川を暗渠化(地下化)し、国道246号が拡幅され、大幅に区画整理が行われました。
そして、ワシントンハイツ (在日米軍施設)があった広大な土地は日本に返還されました。
その場所には、オリンピックの選手村やNHKが建設され、選手村は後に代々木公園として整備されました。
渋谷にさらに大きな変化をもたらしたのは、セゾングループの進出です。
1968年(昭和43年)には西武百貨店、1973年(昭和48年)には渋谷パルコがオープンしました。
それまでは東急の街だった渋谷でしたが、これを機会に、東急と西武の開発競争が始まりました。
西武はロフトを、東急は東急ハンズや渋谷109をと、現在の渋谷のランドマークが次々と出来上がっていきました。
そして、1970年代中盤からは、若者たちが集まる流行の発信地が、新宿から渋谷へと変わっていったのです。
1970年代から1980年代にかけて、ファッションは多様化し、デザイナーも消費者も、自分に合ったアイテムを自由に選択するようになりました。
女性ファッション誌では、「an・an」「non-no」「JJ」「olive」、男性ファッション誌では、「POPEYE」「ホットドッグ・プレス」「MEN'S NON-NO」などが続々と創刊しました。
それにともない、アンノン族・JJガール・ポパイ少年・オリーブ少女などといった言葉も生まれました。
フォークロア、神戸発祥のニュートラ、横浜発祥のハマトラ、サーファーファッション、ディスコファッションなどと、次々と目まぐるしく変化をしていきました。
ジャパニーズプレッピーとDCブランドで全身黒ずくめのカラス族、チェッカーズがお手本のキャラクターファッション、モノトーンファッション、ワンレン・ボディコンといった流行もありました。
そのさなか、渋谷のおしゃれの最先端の街へ牽引したのが渋谷パルコです。
1973年(昭和48年)に渋谷パルコパート1がオープンし、パルコ前の道が、「区役所通り」から、「渋谷公園通り」に変更されました。
「西武劇場」(後のパルコ劇場)が併設され、文化の発信基地の基地となっていきました。
1974年にパルコが「イタリアンフェア」を開催した際、イタリアがあるならスペインもあっていいのではないかとのことで、「スペイン坂」が生まれたそうです。
パルコが出来たことによって名付けられたようなものであり、その影響力は大きなものだったことがうかがえます。
続いて、1975年(昭和50年)には、渋谷パルコパート2がオープンしました。
こちらには、DCブランドの集積フロアが設けられ、個性的なファッションを求めて若者が集まりました。
DCブランドとは、ファッション雑誌やデパートなどで使われていた用語で、デザイナーズ&キャラクターズブランドを意味します。
そして、「マンションメーカー」と呼ばれていた新進気鋭のデザイナーによるブランドです。
コムデギャルソン(川久保 玲)、ニコル(松田光弘)、BIGI(菊池武夫)、イッセイ ミヤケ(三宅一生)、ワイズ(山本耀司)、ピンクハウス(金子功)などが有名です。
これらのブランドは、1980年代前半には大ブレイクし、主流になりました。
1981年(昭和56年)には、スポーツ・音楽・インテリア・雑貨などライフスタイル全般を提案した、渋谷パルコパート3がオープンしました。
こちらにはアフタヌーンティールームの一号店も入りました。
「スペース・パート3」が併設され、カルチャーの発信基地としてますます注目を集めていきました。
このように、パルコが渋谷の街の価値を引き上げ、若者を集めていくようになったのです。
バブル絶頂期になった1980年代中盤には、パルコを中心として、マルイなどのファッションビルが大人気で、バーゲンには長蛇の列が出来ていました。
そして、1980年代後半になると、いよいよ、渋谷発祥のファッション、渋カジが登場します。
渋谷発信で大ブーム「渋カジ」と「渋谷系ファッション」
◆渋カジ(1988年~1992年頃)
DCブランドが席巻していた1985年(昭和60年)頃、アメカジ(アメリカンカジュアル)のスタジャンを着た高校生のチームが、渋谷の街なかに現れるようになりました。
アディダスのスーパースターや、MA-1、レッドウィングのエンジニアブーツ、ケミカルウォッシュのジーンズなどを身につけていました。
この流行は、SNSなどがまだない中での東京限定のものでした。
そして、1988年(昭和63年)には、渋谷にはビームスやシップス、バックドロップといったセレクトショップの他に、スラップショット、ラブラドールレトリーバー、ジョンズクロージングなどのインポートショップが続々とオープンしていきました。
アメカジはますます洗練されていき、「渋カジ」と呼ばれるようになりました。
渋カジの第一期は、1988年(昭和63年)~1989年(平成元年)頃にあたります。
フィッシングベスト、ヘインズ、ディスカスなどのパーカーや、リーバイス501、ペインターパンツ、ダンガリーシャツ、ヘインズの3枚パックのTシャツ、ヘンリーネックシャツ、フレッドペリーのポロシャツを着る団塊ジュニアが街にあふれたのです。
さらには、インディアンモカシン、ワークブーツ、ニューバランスのスニーカー、ハンティングワールドやルイヴィトンのバッグ、アウトドアやイーストパックのバッグを愛用していました。
男性誌では「チェックメイト」や「POPEYE」が取り上げ、話題になり、アメカジの流行は全国区のものとなっていきました。
髪型は、男性は吉田栄作を真似たセンター分けのサラサラヘアや、前髪を立たせた柳葉敏郎もしていたタンタンヘアが主流でした。
女性は、今井美樹や浅野ゆう子のようなソバージュヘアや、前髪をカールしたヘアが流行しました。
また、女性を中心としてバナナ・リパブリックなどのブランドでアースカラーでまとめたサファリや、エスニック調のサンタフェ・ファッションも流行しました。
当時大人気だったドラマ、「抱きしめたい!」でも、W浅野(浅野温子と浅野ゆう子)が身につけていました。
バブル絶頂期の頃です。
続いて、渋カジの第二期が、1990年(平成2年)~1992年頃(平成4年)に訪れます。
まず、ラルフローレンのアイテムを身につけることがステイタスとなり、紺のブレザー(紺ブレ)、タータンチェックのボトムス、ブラックウォッチのショルダーバッグ、ボタンダウンシャツを求め、ショップに若者が殺到しました。
そして、セントジェームスのボーダーシャツ、紺色のチノパン(紺チノ)、マドラスチェックのパンツ、ツイードジャケット、Bassやコールハーンのローファー、ティンバーランドのモカシンなど、トラディショナルで上品なアイテムが次々と取り入れられるようになりました。
この頃に大人気だったドラマ、「東京ラブストーリー」を観ると、当時のファッションが分かります。
このようなファッションを「キレカジ」と呼んでいました。
女子中高生は、「MCシスター」などの雑誌を参考にし、頑張ってこのようなファッションを取り入れていました。
高価なアイテムを揃えなくてはならないため、若い子にはすこし背伸びし過ぎたようなファッションでした。
レスポートサックのショルダーバッグや、エスプリのバッグもマストアイテムで、ちらほらとルーズソックスを履く人も増えてきました。
キレカジから数ヶ月遅れで、ハードアメカジという流れも登場し、ゴローズというお店が憧れの的になりました。
ベルボトムやブーツカットのジーンズ、インディアンジュエリー、カウチンセーター、FFAジャケットなどを取り入れたファッションも流行り、長髪の男性も増えてきました。
その後、スケーターファッションがミックスされ、ローファーやモカシンからvansやコンバースのスニーカーに変わりました。
程なくして、アメカジからフレンチスタイルに移行し、アニエス・ベーのスナップボタンのカーディガンや、エルベシャペリエのトートバックなど、シックな、モノトーンのアイテムに注目が集まりました。
渋カジとして位置付けられているのはだいたいこの時期までのようです。
◆渋谷系ファッション(1993年~2000年頃)
バブルが崩壊し、渋カジの流行が終息していく1990年代前半頃に、「渋谷系サウンド」と呼ばれる音楽が大ブームとなりました。
渋谷にはHMV、タワーレコード、WAVEなどの大型店から、マニアックなレコードショップが多数あったことから、音楽好きが集まりました。
さまざまなジャンルの音楽を取り入れた、都会的な音楽で、自然体なセンスの良さで人気でした。
渋谷系と呼ばれるアーティストは、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギター、スチャダラパー、ORIGINAL LOVEなどが挙げられます。
このような音楽を好む人々は、フランス映画などを単館系の映画館で鑑賞し、影響を受ける傾向が多く見受けられました。
前述した、アニエス・ベーのカーディガンやボーダーシャツ、A.P.C.のジーンズ、ベレー帽などのファッションを好む人が宇田川町の近辺を歩いていました。
そのちょうど同時期くらいから、センター街や渋谷109を中心として、中高生が街を埋め尽くすようになりました。
当初名付けられた、音楽発祥の「渋谷系」とは全く別のジャンルですが、今ではこちらのファッションを含めた総称のようになっています。
ギャルのカリスマは安室奈美恵で、茶髪に日焼けした肌、ミニスカート、ルーズソックスや厚底ブーツ、厚底サンダルが流行し、「アムラー」と呼ばれました。
彼女が結婚会見で着ていた、バーバリーブルーレーベルのミニスカートは、こぞってみんなが身につけるほどの影響力でした。
2000年代にかけて、日焼けの肌はガングロと呼ばれる黒さになり、ヤマンバと呼ばれるまで進化しました。
そしてルーズソックスはスーパールーズソックスに、エスカレートしていきました。
「egg」「Men's egg」「Popteen」「Cawaii」といった雑誌が愛読され、読者モデルがファッションリーダーでした。
また、「EGOIST(エゴイスト)」や、「CECIL McBEE (セシルマクビー)」といったブランドのカリスマ店員がもてはやされました。
男性は、茶髪のロングヘアでサーファーファッションが流行し、「ギャル男」、「チーマー」という言葉も生まれました。
このような「渋谷系」と呼ばれるファッションの他にも、1990年代の渋谷は、多様なストリートファッションであふれていました。
スノーボードのファッションが取り入れられたり、ジャージやエアマックスなどのスニーカーが流行しました。
1980年代から1990年代の渋谷は、若者にとっての聖地であり、渋谷ならではの文化が生まれた時代でした。
最近は、またこの時代のファッションや文化がリバイバルでブームとなっているようです。
経験した人も、これからの人も、新鮮な気持ちで楽しんでみてはいかがでしょうか。
目が離せない、これからの渋谷
2000年代に入ると、渋谷の街には、IT企業が集まるようになり、「渋谷マークシティ」や、「セルリアンタワー」、「渋谷ヒカリエ」がオープンしました。
これにともない、若者だけでなく、さまざまな年齢層の人々が行きかうようになりました。
センター街は一時期、危険なイメージがありましたが、そんなイメージも次第に払拭されていきました。
2015年(平成27年)頃には、NHK周辺の「奥渋谷」とよばれるスポットも登場しました。
このエリアにある宇田川遊歩道は、童謡の「春の小川」で有名な宇田川が流れていた場所です。
落ち着いた雰囲気の商店街と裏道にはセンスの良い雑貨店やおしゃれなカフェが軒を連ねています。
2020年の東京オリンピックを控えた現在、渋谷は100年に一度の大きな再開発が行われ、大きく変わろうとしています。
渋谷駅周辺は高層ビルが建築され、ハチ公広場もかなり大きくなる予定です。
また、2018年(平成30年)には、以前東急東横線のホームがあった場所に「渋谷ストリーム」が開業します。
寂しい雰囲気だった、渋谷川沿いが整備され、水辺の憩いのスポットにもなるようです。
東横線のホームのシンボルだったかまぼこ屋根が再現されるということで、楽しみです。
そして、渋谷パルコは、2016年(平成28年)に建物老朽化のために休業していましたが、2019年に再オープンする予定です。
渋谷を若者の街にしたファッションビルが生まれ変わるとのことで、また渋谷に新たな流行の波が押し寄せるかもしれません。
渋谷の街とファッションの変遷についてみてきましたが、いかがでしたでしょうか。
日々さまざまな人が行きかい、多彩な変化をみせてくれるこの街の魅力をお伝えできていれば幸いです。