心斎橋と商売の歴史
心斎橋と言えば、道頓堀川にかかる戎橋や、その向こうに見える大きなグリコの看板など、大阪の象徴とも言えるスポットからほど近く、「東の銀座、西の心斎橋」と呼ばれ、大阪では有数のショッピングスポットです。
御堂筋沿いには大きな百貨店、世界的に有名なラグジュアリーブランドの路面店が立ち並ぶ一方で、心斎橋筋には昔ながらの商店街があり、若者に人気のオシャレなファストファッションストリートとなっています。
今回は、心斎橋エリアがどの様にしてファッションの街、ショッピングの街となったのか、歴史を振り返りながら見ていきたいと思います。
心斎橋界隈は、大阪市の中の「ミナミ」と呼ばれる地域で、その名の通り大阪市の南側に位置するエリアです。
江戸時代にさかのぼりましょう。
1600年代には既に現在の道頓堀川である南堀川が完成し、その後区画整理も行われました。
1600年後期には、古書店や小道具屋などの商店から始まり、徐々に現在の百貨店の前身となる呉服店も軒を連ね始めました。
劇場や芝居小屋が多く存在した道頓堀界隈から徒歩圏内という立地から、芝居見物のついでにショッピングする人々が多く、心斎橋の賑わいにつながったとも言われています。
明治期に入ると、文明開化の煽りを受けて、舶来商など海外から来た商品を取り扱う商店が人気を集めだします。
中でも、時計や洋傘、洋服は、人々の注目を集めました。
ショーウインドウや陳列ケースを用いたディスプレイが始まったのもこの頃です。
大正期には大丸が西洋風の建築を用いた百貨店を開業したり、アメリカのドラッグストアをまねた形態の店舗や、アメリカ風の飲食店などが続々と登場し、その頃流行となっていた「モボ(モダンボーイ)」や「モガ(モダンガール)」が、ウインドウショッピングを楽しむ、オシャレでモダンなファッションタウンとなりました。
「銀ブラ」ならぬ、「心ブラ」という言葉が生まれたのもこの頃です。
昭和に入ると、地下鉄が開通、さらに御堂筋も完成しました。
大阪でショッピング=心斎橋というイメージが確立され、新しいショップも昔ながらの老舗の呉服店も入り混じった雰囲気が、心斎橋の特徴だったとも言えるようです。
大丸百貨店もヴォーリスの設計によるアールデコ調の建物に再建され、長らく心斎橋エリアの象徴として存在していました。
現在は建て替え工事が進んでおり、その面影を見ることはできませんが、完成後は御堂筋側のみ昔の外壁を保存したデザインになる予定とのことですので、新旧が融合した新しい大丸のオープンが待たれるところです。
この様に、心斎橋は流行の先端を担うオシャレなスポットとして発展してきたエリアです。
現在の心斎橋、人気のスポットとその成立ち
さて、現在の心斎橋ですが、もちろん現在も国内有数のショッピングスポットとしてにぎわっています。
ラグジュアリーブランドからファストファッションまで、あらゆるショップがコンパクトなエリアにまとまっているため、街歩きしやすく、ショッピングに最適なスポットです。
人気のショッピングスポットは、やはり「心斎橋大丸店」、「心斎橋OPA」、「心斎橋OPAきれい館」、「心斎橋筋商店街」、そして駅直結の地下街「クリスタ長堀」ではないでしょうか。
心斎橋OPAは、1994年にできた、比較的新しいファッションビルです。
イオングループの都市型ショッピングセンター開発事業の一環として、新神戸OPAに次いで2番目にできました。
「今、煌めいているこだわり派の女性」をターゲットに、フロアごとにテーマを定め、高感度でハイセンスなブランドが集結するファッションビルとなっています。
「OPAきれい館」に関しては、コスメやエステ、リラクゼーションに特化した施設となっており、ファッションだけでなくセルフケアにもこだわる女性たちに向けてサービスを展開しています。
「クリスタ長堀」は、日本一広い地下街として有名です。
長堀川の埋め立て後、1990年に国際花と緑の博覧会のために地下鉄長堀鶴見緑地線が開通し、1997年に完成しました。
四ツ橋駅、心斎橋駅、長堀橋駅の3駅から直結という好アクセスの上、レディース・メンズファッションや飲食店など、約100店舗ものショップが軒を連ねます。
地下街でありながらもトップライトで地上の光を取り込むことで開放感を演出し、壁画やオブジェ、モニュメントなどのアートも設置されています。
「滝の広場」、「水時計広場」はイベントスペースとなっていて、随時チャリティイベントやマルシェ、キャンペーンなどが開催されています。
「心斎橋筋商店街」は、江戸時代から続く商売の町で、江戸時代から伝わる絵図などの貴重な資料が残っているそうです。
1748年の絵図には、書物や古道具、琴三味線などの商売が多かったとの記載があり、1798年の絵図である「心斎橋筋呉服店松屋」にも、呉服店の商いの様子が描かれています。
また、「せいもん払い」というバーゲンの走りの様なものが描かれた絵図も残っていたり、「引札」と呼ばれる現在の広告やダイレクトメールにあたるものも存在した様です。
寿司や饅頭などと引き換えてくれる商品券があったという資料も残っています。
江戸時代から活気あふれる商売の町であったことがうかがえる資料と言えます。
現在の心斎橋筋商店街はというと、道頓堀から心斎橋に続く非常に長い商店街で、南北に580メートルの長さがあります。
H&MやUNIQLO、ZARAなどのファストファッションもあれば、大丸の入り口も存在し、また、ドラッグストアやファストフード店、さらには人気ファッションブランドの路面店、そしてスイーツ店やカフェ、昔ながらのお茶屋さんなどなど、ありとあらゆる業種のショップがひしめき合っています。
とても長い商店街ですが、その距離を忘れさせてくれる楽しいショップの数々で、ブラブラとお店を見ていたら、あっという間に端から端まで歩けてしまいます。
ちなみに、「心斎橋」という橋があるかどうか、ご存知でしょうか。
現在、「心斎橋」という橋は存在していません。
しかし、もともとは長堀川を開削した岡田心斎によって、長堀川に橋が架けられたのが起源と言われています。
平成9年にクリスタ長堀が完成した際に、橋としての存在は無くなりましたが、長堀通の中央分離帯に橋の一部が保存されています。
西心斎橋の人気スポット「アメリカ村」
心斎橋で外してはいけないファッションと流行の町と言えば、西心斎橋にある「アメリカ村」でしょう。
この辺りは当初、心斎橋にある店舗の倉庫や駐車場があるだけのエリアでした。
しかし、1969年、空間デザイナー日限萬里子氏によって三角公園前に若者向けのカフェ「LOOP(ループ)」がオープンしたことに端を発し、少しずつ若いデザイナーやクリエーター達が集まり始めました。
三角公園は、いつも多くの若者が、アートや音楽などの新しいカルチャーを表現するステージとなっていました。
現在も、芸人の卵やストリートミュージシャンが自分たちの芸を披露する場として有名です。
空いた土地や駐車場を利用して、当時はまだ流通していなかった中古のレコードや古着、サーフボードなどをフリーマーケットで販売し始めたのが、現在のアメリカ村の最初の姿となります。
その後、アメリカでしか手に入らなかったアイテムが豊富に揃うということで若者の間で人気に火が付き、「アメリカ村」という名でメディアでも紹介されるようになったことで、その名が広まり、多くの若者のファッションを牽引するともに、新しいカルチャーの発信基地となりました。
現在は、アメリカ村のシンボルである「ビッグステップ」だけでなく、多くの人気ブランドやセレクトショップがオープンし、人気の観光スポットとしても有名となりました。
修学旅行生の姿も多く見受けられます。
若い頃アメリカ村に通っていた人達が大人になり、子供を連れて戻ってくる様になった今、世代を超えて人気のスポットとなっている様です。
いかがでしたでしょうか。
心斎橋エリアは、様々な歴史と文化が融合する、とても興味深い町であることがわかります。
これからも、新しい流行やカルチャーを発信してくれるに違いありません。
今後の心斎橋からも目が離せませんね。