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ご存知?三越トリビアと壮大な歴史を辿る!

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三越のイメージ

三越のイメージに関するインターネットのあるアンケート調査によると、
「高級感がある」、「伝統がある」、「知名度が高い」、というイメージが上位を占めているそうです。

皆様も、共通したイメージをお持ちでしたでしょうか?
このイメージは、三井高利呉服店「越後谷」として開業してから現在に至るまで、
長年にわたる煌びやかな歴史が現代の人々にも伝わっている証ではないでしょうか。

いつの時代にも、新しいことへのチャレンジを続けてきた三越は、
日本初の取り組みとする企画を、多数手がけてきました。
その企画一つ一つが壮大であり、
他ではない三越だからこそ実現できる企画であるという「特別感」が現在のイメージに至っていることと、
手がける企画が人々に夢と感動を与える内容だったことが
大きなインパクトとして浸透しているのではないでしょうか。

つまり、あっ!という驚きを与えてくれる百貨店であったのはないかと思うのです。
ワクワクするような三越の歩みを、歴史とともにご紹介させていただきます。

 

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越後屋・三井呉服店時代◆
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百貨店やデパートの起源は呉服商で、呉服屋・呉服所と呼ばれたそうです。
呉服屋・呉服所からの近代化への変遷のきっかけを作ったのが、「三越」の画期的な商法の打ち出しにありました。
富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民へ普及させ、新たな需要の掘り起こしに成功したのです。
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1673年、三井家(三井財閥)の元祖である三井高利は、

江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業します。
1683年(天和3年)には営業を拡大させて駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へ移転し、
両替店を併置(現在の「三井住友銀行」)します。

当時の商売とは、【見世物商い(みせものあきない):得意先に行って注文を聞き、あとから品物を持って行く】か、
【屋敷売り(直接商品を得意先に持って行く】が主流でした。

得意先は富裕層である大名、武家、大きな商家で、支払いは年に一度の「極月払い」か、年に二回の「節季払い」であったため、
資金の回転がなく、回収不能など危険負担が大変大きかったのです。

また、呉服商は反物を販売するのみで、着物としての「仕立て」までは扱っていなかったのです。
その為、反物は1反ずつ販売され、切り売りもありませんでした。

そこで、それまでの商習慣を打破する手法を次々と打ち出し、江戸中に札(広告)を配ったのです。

「店前(たなさき)売り」、「仕立て売り」や、
「店前現銀掛け値なし(値段を札に書いて商品につけて実際のその価格で販売=定価販売)」、
「小裂いかほどにても売ります(切り売り)」のスローガンを掲げ、
富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民に普及させました。
「店前現銀掛け値なし」という定価販売においては、世界でも初めての試みだったそうです。

1895(明治28)年8月、高橋義雄が理事に就任すると経営改革に着手します。
渡米時代、デパート経営に興味を持って学んだことを取り入れたのです。

例えば、座売り(店頭に並べるのではなく、客の求めに応じて1つ1つ奥から取り出す)の一部を
商品陳列販売に、大福帳を会計制度(西洋式帳簿)に改めるなど、経営の近代化に努めました。

1900(明治33)年10月15日、一部から始めた商品陳列販売は、ついに全館に展開して開場しています。
この斬新な商法は非常に大きな反響を呼びました。
当日の様子を記録で読むと、

「未明から店前にお客様が行列となり、午前7時の開店とともに人が波打って流れ込み、
午前10時には階上階下760畳の広間も人で埋め尽くされ、
一時入場停止となるほど、開店以来の盛況になった」
という内容が書かれています。


◆株式会社三越呉服店時代◆
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呉服店から百貨店への移行期となり、
これまで以上に富裕層から一般大衆への普及を進めた時代です。
「デパートメントストア宣言」とはどんなものだったのでしょうか。
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この時期の三越の広告は、「歴史に残る広告」として、語り継がれています。
時代の移り変わりに沿って、広告とともに三越が打ち出した戦略をご紹介します。

1904年、「株式会社三越呉服店」を設立し、初代専務に日比翁助が就任します。
三井・三越の連名で、三越呉服店が三井呉服店の営業をすべて引き継ぎ、日本初の百貨店となります。

元旦の全国主要新聞に掲載した全面広告では、これまでの日本の呉服屋スタイルを廃し、
何でも揃うアメリカン・スタイルの百貨店を目指す「デパートメントストア宣言」を行いました。
これにより、富裕層のみならず、一般大衆が百貨店での買い物をエンタテインメントとして楽しめるスタイルを築きました。

この宣言後はインパクトある広告に力を入れて知名度を上げていきますので、一部ご紹介します。

1911年の「春の売り出し用ポスター図案懸賞募集」では、
1等賞金に1,000円という当時としては破格の賞金で注目を集めました。
そして、300人の応募者から見事に選ばれたのは、橋口五葉の「此美人」でした。

1913年には、帝国劇場のパンフレットの「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチフレーズが大流行します。
「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は、当時の女性達の憧れとして鮮烈に印象付けました。

1915年には、「春の売り出し」ポスターでは、杉浦非水の「エンゼル」を採用し、
大胆な色彩と蝶の羽をつけた女性のイラストで、アール・ヌーヴォー風の画風が話題になりました。

1970年代以降は、「贈り物は、やっぱり三越」のキャッチフレーズで、
中元・歳暮は三越の包み紙で贈るというステータスを普及させました。

本店の建築様式も人々の話題となります。

1914年、日本橋本店 ルネッサンス様式の新館が竣工します。
鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、
アール・デコ調の内装と合わせ建築史上に残る傑作といわれました。

最新設備の取り入れにも注目が集まりました。
日本の商業施設として初めてのエスカレーターや、
現在にも残る、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気のエレベーターをはじめととして、スプリンクラー、全館暖房、屋上庭園、茶室、音楽堂なども取り入れられました。
そして、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造した、正面玄関の「ライオン像」設置は、
完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となりました。

 

1923年8月5日には、日本橋店にて日本初のデパートのバーゲンセールも開催しています。

このように、三越が「日本で初めて」の企画を多数手がけた時期です。
建築様式に、最新設備など、幅広い年代の人々がまるで遊園地にでも行くようなワクワクした気持ちで憧れる、
話題のスポットとしての「三越」の存在感を感じるエピソードです。


◆(初代)株式会社三越時代◆
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よりエンタテインメントを取り入れ、近代化に力を入れていきます。
三越を訪れる人が「特別」を感じられる空間に変わっていきます。
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1932年、三越が建設資金を負担し東京地下鉄道三越前駅」が開業します。
現在にも残る、日本橋本店地下売場と連絡した作りです。

1935年に増築改修工事が完了した日本橋本店は地上7階地下2階建てとなり、
国の重要文化財に指定(2016年7月25日)されています。

中央ホールが完成するとパイプオルガンが設置されました。
このオルガンは、貴重な歴史資料として2009年(平成21年)には中央区有形文化財に登録されるほどのものでした。
日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンです。
当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円であると言われています。

1951年には、 猪熊弦一郎のデザインによる包装紙「華ひらく」を全店で使用開始します。
これまで百貨店の包装紙や紙袋は、どこも地味なもので紙質も良いものではありませんでした。

そこで、クリスマス用の明るい包装紙企画のデザインを猪熊弦一郎に依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」でした。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れて完成させたそうです。当時、破格の報酬でも話題となりました。

この画期的な包装紙「華ひらく」は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになりました。
「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されています。

1957年に、日本橋本店屋上に5月3日から6月2日の期間限定で特設のディズニーランドを開園しています。
1971年に、銀座店内にマクドナルドの日本1号店が開店。
1986年 に、英国のチャールズ皇太子・ダイアナ妃(当時)が日本橋本店に来店しています。


◆(2代目)株式会社三越時代◆
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ここからは、2000年以降の出来事となり、
主に、組織としての改正の動きが多くありました。
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2003年、子会社4社(千葉三越、名古屋三越福岡三越、鹿児島三越)と合併(新設合併)により、(2代目)株式会社三越が誕生します。

2004年 、デパートメントストア宣言から100年となり、日本橋本店に新・新館が完成します。

2008年 、 伊勢丹との共同持株会社三越伊勢丹ホールディングス」を設立、同社の完全子会社となります。

2011年4月1日、運営会社の株式会社三越が、株式会社伊勢丹を吸収合併し、「株式会社三越伊勢丹」となります。

2016年7月25日 、三越日本橋本店の建物が国の重要文化財に指定されます。

現在のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」、「This is Japan」となります。

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近年の「三越トリビア」は!

いかがでしたか?
富裕層だけのものだった呉服を、百貨店として一般庶民へ広めた三越の偉業。
欲しい物を欲しい時に買うことができるという、現在では当然である「ショッピング」も、
事業として展開されなければ叶わない娯楽であったのですね。

包装紙、エスカレーターとエレベーター、ライオン像、パイプオルガンなど、
これら、三越トリビアと呼ばれるものの中で最新のトリビアをご紹介します。

2008年、オリジナル高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」が導入されました。
通常45席の大型バスの座席をわずか10席に限定することで、
圧倒的なゆとりの空間を実現した三越伊勢丹オリジナルのデラックスバスです。
ゆったりと体を包み込むような大型のリクライニングシートや広々とした化粧室を備え、
ファーストクラスのバス旅として、優雅で快適な空間を堪能できるラグジュアリーバスとのこと。

三越が提供するサービスは、これからの時代の移り変わりとともにどんな変革をするのか?
私たちを驚かせてくれる展開が楽しみですね。